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帽子の世界

「どんな人にも似合う帽子はある」

トップランナー10月17日のゲスト、原田美砂さんは、
帽子デザイナーで、その口からこの言葉が出た時、
ちょっと、気持ちが弾む♪(笑)

おしゃれには縁遠い私ですが、
自分に似合う帽子って、どんな帽子だろう?
原田さんに詰め寄ってお尋ねしたくなりました。

いえ、別に錚々たる顔ぶれの愛用者の一人になりたいわけではないのですが…(^^ゞ

アラン・ドロンの「ボルサリーノ」、
伴淳さんの「帽子とひまわり」等など、
帽子が主要な要素を占めているドラマを思い出しもしました。

帽子を後ろに傾けて被るのは、日本独特で、幼稚園からの影響では…、
というご指摘に驚く。
ちょっと、目深に被り、角度をつけるのがポイントらしいです。
被っているあなた、もう一歩進化させては如何でしょう?(笑)

服を選んだり、着こなしたりするのは大変だけれど、
帽子はずーっと手軽に出来るおしゃれに思える。

時恰も、秋!
色づき、枯葉舞い散る街角を、どんな帽子を被って歩きましょうか?
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by kimipoem | 2004-10-17 20:17

公務の重さと犯罪の結果責任

「水俣病関西訴訟」で最高裁が15日に、国と県との行政責任を認める判決を出しました。

以前字幕ライブラリーで見た、
「水俣病 空白の病像」という番組を、思い出す。

これは、その原因物質メチル水銀の研究が、日本では大幅に遅れており、
その問題点を水俣病に携わった医学者達の証言の中から浮き彫りにしたものです。
未知の症例に直面した医療関係者は、どうあるべきか?
そこで必要とされる謙虚さを知るには、充分すぎる事例です。

さらに、
医学的に十分把握できていないから、行政が充分な対処をし得なかった、
とは到底思えませんでした。

それならば、今後、先例の無い事件に遭遇した時、行政は頼りにならない、ということになってしまう。
なによりも、住民(県民であれ国民であれ)の生命・健康が脅かされている時に、
怠慢であったり、責任逃れをしていたり、してはならないと痛感させられ、
行政に携わるものの責務の重さをも、まざまざと見せ付けられました。
他の薬害事件も併せて思い起こされる。

公務の職責をあらためて、見直し、
このような事例を風化させずに、
生かし続ける必要があります。

同じようなことが、他の方面でも言え、例えば、司法。
この頃は、刑法第39条に関わる判決が注目を集めている。
判決の検証が行われておらず、
犯罪被害者の目から見たら酷いことが数多くあるらしい。
そういう観点から、「そして殺人者は野に放たれる 」という本を読んでみようと思っています。

犯罪被害者が、救急車で運ばれ、治療を受けたら、その家族がそれらの経費を負担する。
しかし、犯罪者の方はどうなのでしょう?
今まで知らずにきた事の中に、「えっ?なんか、おかしい!」
ということがまだまだあるように思えてきました。

免許証の書き換えに行ったときの講習で、
罰則が重くなったのを知ったとき、岩波新書の「交通死」を思い出しました。
これは、被害者の立場から是正された事例だと思い至る。

犯罪における故意の有無より、結果責任を問う流れが窺えます。
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by kimipoem | 2004-10-16 21:05

北海道大ポプラ並木

先の台風18号で、51本のうち、19本が倒れた由。
再生作業が始まり、大半が若木に植え替えられます。
その若木を10年程前から、ボランティアで育ててきた方が、
10月11日付朝日新聞「ひと」欄でされています。

北大きっての造林の専門家松田彊(きょう)さんです。
100年近い歴史を持つので、「元の姿のままに」という声はありましたが、
松田さんは、次のように述べておられます。
「無理がある。木は生き物。
神社や仏閣のように補修で済まされるものではない」
自ら40年もそこで研究してこられた松田さんとて、寂しいのに、
この言葉を発せられる。

「樹木との共生を考えるきっかけにしたい」。
倒れたポプラを、そんなふうに生かしてやりたい。
そういう松田さんの思いが切に伝わってくる言葉として、
私は受け取りました。

「いびつな形に切って立て直すことが、木にとっても良いことなのか。
ポプラの若木はスッと伸びる。
30年もしないうちに元の姿に戻るでしょう」
ポプラに寄せるその思いから、私たちが忘れがちなものを、
汲み取れそうな気がします。

人は木がないと生きてはいけないと考えられています。
でも、私は、時折、そういう事を忘れてしまっている。
なにかの折に、ふと思い出し、
ポプラ並木、けやき並木、などや、ちょっと大きな樹木を想い、
慰めや励みにしているだけ…。
雨の中に立つ樹が、その中に雨をしっかりを受け止め含めている。
そんな事も含め、役に立つ立たないといった以上のものを、
もうすこし、大切にしたい、と肝に命ぜられました。
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by kimipoem | 2004-10-11 16:12 | 季節

ラジオの世界

10月10日に放送された「課外授業ようこそ先輩」の先輩は、
谷村新司さん。
てっきり音楽のお話しかと思っていたら、
題して「ハガキでラジオショーを作ろう」でした。

ハガキを書くことから始め、
お昼休みの手作りDJ放送まで行いました。

見ながら、自分の世界に浸ってしまう。
だって、あんなに過ごしたラジオと一緒の時間。
自分の中では結構大きい。

無論、谷村さんのDJも聞いたことがあります。
というか、まだ、アリスがそんなに売れてなくて、
地方の放送局のクリスマス特集番組に出ていた頃から、聞いていました。
その頃、もう、かぐや姫の南こうせつさんが活躍していたかな?
いや、それは、もう少し後かもしれません…。

子どもたちがハガキを前に苦悩している姿を見て、
ああ、あのリクエストカードを書くっていうのも、
意外に、自分の文章修業になっていたのかな?と思う。
高校時代、悪ガキたちと親しくなれたのも、
放送に採用されたカードがきっかけでした。
その彼等に守られたことも、多々ありました。

ラジオが若い人たちに聞かれなくなってきている、というのは寂しいですね。
でも、本当かな?とも思う。
というのは、
金曜日の晩、11時過ぎに、高校生の息子に催促されて、
大阪のFM放送を聞く為、旭川の河口にまでドライブする事があったからです。
止めて静かな暗い車内で、スピーカーに耳を当てている彼を見ていると、
あの頃の自分の姿がオーバーラップします。
耳が遠いのでヘッドホーンで聞くしかなく、
それでよく、呼んでいるのに無視された親から叱られてもいました。(笑)

1960年代から70年代にかけて流行った曲が流れているのを聞くと、
あの頃のリスナー達が今、作品・番組を作っているんだ、
と思い至り、ニヤリとさせられる。
先だって見た映画「69」は、原作者が同世代であって、
ラジオで聞いた、いくつもの曲に作品が支えられていました。

話が取り留めなくなってしまいました。
この方面の話、又する機会がありそうです。
続きは、その時に♪
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by kimipoem | 2004-10-10 19:59

51度目の秋

先日、出勤時、旭川に架かる急勾配の橋を登っていると、
路面以外に目に入るのは、広がった空だけ。
その空いっぱいに、うろこ雲が浮かんでいて、
思わず空全体を見渡したくなり立ち止まる。
もう、秋の真っ只中!深呼吸する。

昼下がり、道端の塀に上がって柿を取っている人を見かけました。

今年の秋は、こういう好天が少なく、
台風が多く、いつにないコースを取って通り過ぎていく。
そして、台風一過の秋晴れより、尾を引いた雨模様が続く事の方が多い。
娘の運動会も始めは小雨の中でした。

女心と秋の空という言葉を久々に思い出しました(^^ゞ
秋の言葉と言えば、「秋の日はつるべ落とし」というのもありました。

これも先日の事。
仕事を定時に終え、試写会を見る為、西隣の倉敷へ向う。
まだ、6時前なのに、もう夕陽は見えなくて、
だんだんに降りていく夜の帳が見えるだけ。
ラジオをつけると、東京はもうすっかり暗くなっている由。

映画を見終えての帰り道、
この前は全開にした車窓、今夜はぴたっと締め切ったままです。
ちょこっと、ファンヒーターを入れました。

長く暑かった夏が過ぎて、ホッとし、それでもちょっと寂しいような気もします。
秋はやはり、心静まる季節ですね。

このところ立て続けに映画を見た所為か、
今、本を読みたくて堪りません。
でも、寄る歳の表れで、ちょっと文字が見づらくなってきている。
離せば焦点が合うも文字が小さいので、
眼鏡を外して本を読む。(^^ゞ

歳を取ってゆっくりできるようになったら本を読もう、なんて甘い!
本を読むには若いほどいいのです。
視力だけでなく、思考力も記憶力も、格段にいいのですから。
ああ、もっと、もっと、読んでおけば良かった…。
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by kimipoem | 2004-10-10 18:04 | 季節

気づけば隣に座っていた秋

この季節の変わり目、私には、朝晩からやってきました。
朝、涼しくなって、目覚めが良く、出掛けて雨上がりだと肌寒くさえある。
夜、いつものように風呂上りに、扇風機に当たりっぱなしになっていると、
思いの外、体が冷えてしまう。

毎日会社の昼休みに外出して、目にしていた田圃の稲穂の先が、
いつしか黄色くなって、そこはもう確かに秋に入っていました。
それから、駐車場の向かいの家にあるイチジクの実が生っている。
ちょっと先にある柿の木には実らしきものが出来始めている。
小さい秋を見つけたというより、ふと気付けばもう秋の気配に包まれていました。

夏が好きな人には寂しく、秋が好きな人にはうれしい時候ですね。
あなたは、どちらでしょう?

人ぞれぞれに好きな季節の歌があるでしょう。
秋になって私が思い出したのは、
「誰もいない海」「秋でもないのに」「落ち葉のコンチェルト」「秋はひとりぼっち」等など。

講談社から出ている小冊子「本」に、
「ぼくの歌、みんなの歌」という森達也さんの連載ものが有り、
その8回(2004.8)で、「落ち葉のコンチェルト」が紹介されてありました。
読んでいた病院の椅子からずり落ちそうなくらい、ショックを受ける。
センチなメロディーに酔っていたけど、
本当は深い主体性を歌い上げているのだった…。

「秋でもないのに」を歌っていた本田路津子さんが、
わが街の教会へいらっして、歌うのを目の当たりに見られたのは、
もう何年前だろうか?
いつしか自然に引退していったような感じを受けていたのに、
教会で無料で彼女の歌が聞けると知った時、大変驚きました。
信者ではありませんが、神の恵みを受けるべく、いそいそと出かけました(笑)
手話を交えた賛美歌も歌われました。
彼女の歌声に酔いしれて会場を出る時、同じ神の子と見間違えられそうになって、
冷や汗をかいたのも懐かしい思い出です(^^ゞ

他にもいろいろ曲はあるはずで、
何かの拍子にパッと脳裏に甦るのは、
ちょっと楽しくもあります。

2004.92
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by kimipoem | 2004-10-10 01:41 | 季節

要約筆記講座でのお話「難聴者について」 2004年秋

初めまして。

私は聴覚障害者の中の難聴者で、要約筆記のお世話になっています。

今日は、私を通して、
要約筆記を利用する聴覚障害者をより理解していただきたく、
お話させていただきます。

まず、外見からは分かりにくい障害です。
目ざとい人は、耳につけている補聴器で分かるかもしれません。
でも、直ぐにそんなところを見るのは、同じ障害を持つ人か、
いつも聴覚障害者に接している人たちくらいでしょう。
そして、その手がかりさえ、外してしまえば、見ただけでは全く分かりません。

それから、聴覚障害者によっては、話し方で気づく人がいるでしょう。
聞こえない・聞こえにくい事で、日本語を自然に習得できなかったものは、
発声が不自然になりがちです。
発声している自分の声が聞こえないか、本来の音声とは違って聞こえてしまうから、
聞こえている人たちと同じように、自分で聞きながら修正できないものなのです。

声の不明瞭さが、聞こえの程度や、聞こえなくなった時期をあらわします。

よく聞こえる人ほど、健聴者の自然な発声に近い。
又、十分に言葉を習得できる年齢を過ぎた後、聞こえなくなった人もそうです。

それ以前に聞こえなくなった人の多くは、発声の訓練をします。
これは、かぎりなく本来の声に近づいても、
聞きながら修正された自然の発声とは、違って聞こえるのが殆どです。

これまでのところで、
私が、よく聞こえる方で、言葉の習得時を過ぎた後の難聴者とご理解いただけるでしょうか。
三歳の時に中耳炎で難聴になりました。

私が今聞こえているのは、補聴器をした上での事です。
補聴器を外すと、右耳が全く聞こえず、左耳が健聴者の半分ほどしか聞き取れません。
この聴力で、中等度難聴といい、身体障害者手帳がようやく貰えます。
実際には、私より軽い程度の障害で、補聴器をせずに不自由している聴覚障害者がたくさんいるようです。

軽度であっても、普段の生活に困っています。
それでも、なかなか補聴器を早めにはつけません。
障害者として見られたくない・扱われたくない、という気持ちもあるからです。

そういう気持ちの半分は、障害者というものに対する社会の偏見からくるものです。
行き過ぎた偏見・至らない偏見があります。

これらは、もう半分の誤解・無理解からくるものです。

引き続いて、どういう誤解・無理解があるか、
という話へ移ります。

これまで、中等度・軽度という言葉を出してきました。
更に聞こえないのが、重度の難聴と申します。
これらの言葉から受けるのは、
だんだんに音量を下げていくようなイメージです。

しかし、実は、それだけではありません。
音域によって聞こえが違う場合があるからです。
同じ中等度であっても、高音の方がよく聞こえる人もいれば、
低音のほうがよく聞こえるものもいるのです。
例えば、この私、高音の方が聞こえるタイプです。
で、今、家で子どもたちの世話をしている私の連れ合いは、
低音の方がよく聞こえます。

やかんの口がピーッと鳴ったり、赤ん坊が泣いたら、
何でこんなやかましいのが聞こえんのだ、と私は思います。
でも、寝た後、換気扇のうるさい音がなぜ聞こえないのだと、
切り忘れたのを彼女に起され叱られたりもします(笑)

音域によって聞こえが違うために、
ひとつの言葉・ひとつの文章が違って聞こえてしまう。
50音同じように発声しても、声の高さがそれぞれ違うからです。

国語や英語のテストで、
文章の中の言葉や言葉のなかの一文字が空欄になったものを、
問題として出されたことがおありでしょう?
あの様に聞こえてしまいます。

他にも、違った音がすりかわって入ってしまう人もいる。
音として違うものになる事も有れば、
他の不要な雑音、例えば耳鳴りに悩まされながらのこともあります。

ところどころ聞こえて、その他が聞こえていない。

殆ど聞こえていたり、キーワードなどがきちんと聞こえておれば、
かなり理解でき、相手は、こちらが難聴だということを忘れることも起こり得ます。
でも、殆ど空欄だったり、キーワードが多く抜けていると、
全く聞こえないのと同じです。
時には、間違った推測をして、とんでもない解答を作り上げてしまう。

実生活における難聴者のこの問題は、学校での問題と違い、
健聴者にとっては問題ではないのです。
つまり、健聴者の前の難聴者は、
健聴者にはない問題を瞬時に解いているのです。
それも、殆ど、解けず、間に合わない。
間に合わないから、取り合えず、分かった振りをして、
今後の展開にその解答のヒントを期待したりします。

で、健聴者の方は、難聴者が理解したと思って、話を進めます。

この後、健聴者がオヤッと思った時、
人ぞれぞれ様々な判断をしてしまいます。

聞こえていないのか?
理解できないのか?
性格に問題があるのか?


健聴者が難聴者とコミュニケーションをしていて、
一番の誤解を受けるのは、この辺りでしょう。
聞こえていたり、聞こえていなかったりする。

今、コミュニケーションと言いました。
我々が普段なにげなく、やり取りしている言葉で、
情報の伝達ばかりでなく、感情のキャッチボールをしていることが、
意外に見落とされています。

伝えるだけなら、手渡すのが一番いい。
でも、力いっぱい言葉を投げることも有れば、
ゆるく言葉を放ることもある。
時には、そーっと置いて、相手に拾って貰いたいボールもある。

しかし、それら全てを、手渡してちょうだい、と言われたらどうでしょう?
それは、ちょっと違う、そう思いません?

だから、聞こえないもの・聞こえにくい者は、聞き返しにくいのです。

聞こえていないのなら聞き返しなさい、と私も小さい時から言われ続けてきました。
純然たる情報の伝達なら、大きな声を出したり、書いてでも伝えてくれます。
でも、多くは、「もういいよ」と中断される。

それは、いちいち、相手に手渡すのが面倒だからだし、
感情的な意味が違ってくるからです。
いいにくい事・恥ずかしい事を、きちんと聞こえやすく伝えると、
もとの伝えたかった感情が抜けてしまうでしょう?

健聴者はともかく、ボールを投げた。それで、ほとんどお仕舞い。
相手は拾えるはず、自分はボールを投げることは投げたのだ、というわけです。

難聴者は、上手くキャッチできていないのです。
先ほどの例でいえば、きちんと正解して、取れたことになる。
一つをなんとか拾おうとしている間に、
どんどん、いろんなボールがやってきて、どれも拾えずに時間が経っていき、
状況が変わってしまう。

こういう事が重なっていき、聞こえないもの・聞こえにくい者が、
だんだんに引っ込み思案になっていくのが、ご理解いただけるかと思います。




難聴者が引っ込み思案なら、あなたはそうじゃないみたいね、
って今、突っ込みたくなったでしょうか?(笑)

この話、もう一つ奥があります。
それは、自分が聞こえない事を受け入れるということです。

自分は聞こえない、でも、…という発想をしている人は、
自分が聞こえないことにまだ納得しきれていません。
様々な葛藤が心の中にあり、精神的に傷ついている人が多いのです。

聞こえない、だから…という発想に移れている人は、
聞こえないのはしょうがない、だからこうしよう、と展開します。
そういう難聴者もいます。

聴覚障害者といわれている人たちの中に、中途失聴者といわれる人たちがいます。
この人たちは、
「自分がまわりの誰とも違う、他ならぬ自分」であるようになった、
思春期以降に聞こえなくなった人、
そう私は解釈しているのですが、
そういう人たちなので、幼少の頃から難聴の私と違って、失ったものがあるのです。
もっと大きくなってからの人であれば、
職業や学歴、社会的地位を喪失してしまう人が、殆どでしょう。

私の見聞きした範囲では、中途失聴者は、聞こえない度合いが進行していくケースが多く、
全く聞こえなくなる人もいます。

そう、聴覚障害は、進行する事もあるのです。
私は、両耳とも安定して、さほど落ちてはいません。
でも、私の連れ合いは、落ちまして、重度の方へと移りました。
しかし、よく聞こえる部分は落ちていない…。
本人にとって、これはやりきれないです。
以前と同じくらいに聞こえながらも、以前に増して聞こえていない。
自分の実感としては受け入れがたいものです。

聴覚障害を受け入れるという話に戻ります。
この受け入れ、実は、聞こえない本人だけでなく、
相手、周囲の人たちにも必要な事なのです。

というのは、聴覚障害者が一人でいて何事も無い時、
この聞こえないは、障害でも何でもないのですから。
相手あっての障害なのです。

聞こえない人、聞こえにくい人のいるところで、
そういう人を思いやって、始めてこの障害は乗り越えられるのだと思います。

プライドの高い人、社会的地位の高い人は、なかなか相手を思いやれません。
自分が、相手の目線・位置に降りていきにくい人が多いのです。
そういう人に、聞こえない人への配慮を絶えず求めるのは、難しい。
障害がある人と無い人とを比べたら、
何とかできるのは、無い人の方であるのが、分かりきっているのにです。

聞こえる人と聞こえない人との仲立ちをして、この障害を乗り越える手立ての一つとして、
要約筆記があります。

他にも、手話がその手立てのひとつとしてありますが、
これは、普段日本語を使用しているものには、習得が大変に難しいものです。
普段使わないと身につかないのは、どんな言語とも一緒だと思います。

日本語を既に習得している者には、手話を習得するより、
日本語を使うことの方がはるかに、楽だし、なによりも、気持ちが入りやすい。
周りでも、日本語を使用している絶対数が多いという状況があります。


補聴器をしてて、私は中等度難聴者から離陸できている。
そう、思われているかもしれません。
でも、それは間違いです。

補聴器を付けていると、耳栓をしているのと同じであり、風通しがなく不快です。
それに、絶えず増幅された大きな音を聞き続けているので聞く事に疲れます。
時には、耳鳴りが酷くなったり、頭痛がするほどです。

皆さんの耳は、補聴器には、到底出来ない能力があります。
それは、多くの音の中から一つの音を聞き取ったり、
無用な音を聞き流したり、
聞いてしまった音を後から思い出すことです。

ある一つの同じ場所でたくさんの人がそれぞれに話をしている、
シーンを思い浮かべていただいたら、
よくご理解いただけます。

そういう席での補聴器に入ってくる音は人声だけではありません。
健聴者が気に留めない音も一人前の顔をして容赦なく入ってきます。
また、人の声には聞きやすい声と聞きにくい声とが有ります。
そして、複数の会話を聴き取る事ができないので、
後からおっかけて、他の人の話に加わるなんて、超ウルトラ技です。

だから、二人以上の人の中にいる聴覚障害者は、
一対一より、大変な不利におかれている事も知っていただけたら、
いいかと思います。

いろいろ述べて、一度に多くの事を話したので、
わぁー、大変だ!
と思われても困りますので、(笑)
我流で、聴覚障害者に対する時の基本だけを申します。

相手の聞こえ具合と、周りの状況とに応じて接してください。
急ぐのは禁物です。
どうしても急ぐのであれば、要点をまとめて書くのが一番早い場合もあります。

静かなところで、一対一であれば、ゆったり話して十分伝わる時があります。
騒がしいところで、大きな声が通じなければ、勿論、書くのが一番。

裏技を一つ。
キーワードを書くだけで、話がかなり通じやすくなる事があります。
正真正銘の要約筆記では決してしては、いけないことですが…(笑)

2004.8.24
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by kimipoem | 2004-10-10 01:36 | 聴覚障害

要約筆記講座でのお話 2004年夏

難聴についてお話します。

難聴は誤解されやすいと思います。
難聴といっても、十人十色で、千差万別です。
難聴者の一人である私が、難聴をよく理解しているかといえば、
そうであるとも言えるし、そうでないとも言えます。

難聴者の数だけ難聴があると言っていい。
その中の一人私が理解し得ている限りにおいて、
難聴というものについてお話させていただきます。

いろいろなアプローチがありますが、
まず、難聴になった時期からいきましょう。

生まれつきの難聴者は、聞こえの度合いに応じて、
言語の習得に違いが出ます。
聞こえないほど、発声が不明瞭になっていきます。

私は三歳の時の中耳炎で難聴になりました。
言葉の習得時を過ぎた後なので、
このくらい話せるのです。

それから、もっと後、
自己が確立した後に聞こえなくなった人を、
中途失聴者と言っていいかと思います。
この人たちは、
聞こえる自分による自己や社会的地位というものが既に出来た後なので、
それらの多くを失い、
早くからの難聴者とはまた違った難聴の意味を負っています。
私が思うに余りあるものがあります。

そうして、年老いての老人性難聴というものがあります。



それから、聞こえの度合いに応じて、
軽度・中等度・重度の難聴という分け方をします。
実際に障害者手帳を受け、障害者として扱われるのは、
中等度からになりますが、
軽度であっても、聞こえない事から受ける不利益はあります。

この聞こえの度合いも、固定的なものではなく、
進行する場合があります。

先ほど、軽度・中等度・重度と申し上げましたが、
こういう表示をしますと、
よく聞こえる人の聞こえのボリュームを段々に下げていったようなイメージを持ちやすいのですが、
実際はもっと多様です。

片方の耳が全く聞こえないが、もう一方の耳はよく聞こえる人もいます。
また、高い音が聞こえにくいけれど低い音はよく聞こえる人もいます。
無論、低い音が聞こえなくて、高い音が聞こえる人もいる。

例えば、私は赤ちゃんの鳴き声や、やかんの口でピーと鳴る音がよく聞こえますが、
切り忘れた換気扇の音は聞こえなくて、注意されるのです。

幾つかの単語からなる話の中で、ある単語が聞こえ、他の単語が聞こえない時が出てきます。
ひとつの単語の中で、聞こえる音と聞こえない音とが出てくる場合もあります。

それから、難聴の原因となっているのが、耳のどの部分かによって、
その聞こえる音が全く違ったものになっていることもあります。

そして、外からの音ではなく、耳の中で発声する音、
耳鳴りに悩まされている人もいます。



この聞こえを補おうとして、
相手の唇を見、その形から音を推測することがあります。
ドラマや映画等で読唇を表現していますが、
実際には、あの様にうまくできないことのほうが多い。
よく引き合いに出される例は「くすり」(薬)です。


聞こえなさを補う機器として、補聴器があります。
これは、基本的に、
マイクに入ってくる音を増幅して、耳の中へ送るものです。

聞こえる人には、聞こえのフィルターというものがあって、
それを通して、聞きたい音だけを拾い出せると、
専門家の書いたものを読んだことがあります。
雑踏の中で特定の人の話だけを聞いたり、音楽の中から歌詞を聞き取れるのがそうです。

けれども、補聴器はそのような機能がなく、
生活の様々な雑音がそのまま全体として大きく響いて聞こえます。

これをよく聞こえる人がつけますと、
あらためて多くの雑音が鳴り響いていることに気付かれるでしょう。

この不要な多くの音を長時間耳元で聞いてしまうので、
補聴器をつけるのは、大変疲れるものです。

補聴器を外すと、耳の中に空気が入って心地良いし、
離れた所から聞こえてくる音のやわらかさにホッとします。


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補注(後で補足説明したもの)

補聴器についても、難聴者それぞれに接し方が違います。

補聴器を隠すようにつける人もいれば、
カラフルな補聴器でおしゃれをする人もいる。

箱型や耳掛け型、そして耳穴式という風にいろいろなタイプがあり、
概して、前の方ほど出力が大きい。
箱型は、マイク部分を話し手の方へ近づける利点がありますが、
かさばりますし、コードが邪魔になる場合もあります。
耳穴式は、かさばらないのでいいのですが、
不用意に扱うと落とすし、付けたり外すのに手間です。

私は、以前、耳掛け式を使っていました。
でも、汗などで早く使用不能になったのであきらめました。
そうならないよう、メッシュのカバーをきちんと着けている方もいるのですが(^^ゞ

補聴器の出力を上げていくと、ハウリングを起こします。
ピーピーという音が出るのです。
そうならないよう耳型を採っているのですが、
それでも鳴る事がしばしばある。
で、前に言ったように、高音が聞こえない難聴者の場合、
このハウリングが聞こえません。
気軽に、遠慮なく教えてあげてください。

長い間、補聴器と付き合ってきた友人の中には、
よく聞こえる補聴器より、長時間聞いて疲れない補聴器の方を選び、
かえって、安い補聴器を使うようになった人もいます。


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では、次に
聞こえない事で、どのような感情や人間関係が生じてくるか、
お話します。

人の話は、事物の情報だけではなく感情をも伝えています。
だから、聞こえなくて、聞き返す事が出来ないこともある。
聞こえたふりをしてしまう。

例えば、皆が楽しく話をしている時に、何度も聞き返すのは、
その場の雰囲気を壊しやすい。
他愛もない話をして気持ちを通わせる時に、
聞き返されたら、何度もは言い返しにくいでしょう?
しらけたりします。

それから、他の人がいるところで、大きな声で話づらいこともあります。

「あなたのこと、嫌い、じゃない」
「ちょっと、手洗いに行ってきます」
「そんなこと、大きな声で言うもんじゃないわ」

話が込み入っている時、
聞き返すのが、聞こえていないからというより、
理解していないからと思われて、癪な時もあります。
聞こえていないのと理解できないのとを混同されるのです。

また、聞くことに一所懸命で、
その後、聞いたことについて考える。

これは、よく聞こえる人がほぼ同時にしていることで、
例えば、喧嘩のシーンなどを思い出していただけたらいいかと思います。
聞こえていないと、ああは、丁丁発止と、やり合えない。

聞こえない人には、聞く事と答える事との間に、ズレが生じて、
これも、頭が悪いという風に見られがちで、かなしい。

私自身、実際頭が悪くて、
理解不能・判断不能な時があるので、
このことについてはこれ以上つっこみません(笑)

また、次のようなコミュニケーションもあるでしょう。
言いたいのではなく、聞いて欲しい。
そういう話は、大きな声でしづらいし、くり返し話しにくい。


世の中には、よく聞こえている人の間で、
聞いて聞かないふりをする場面があります。
また、故意に相手に何度も同じ事を言わせる場面もある。

だから、聞こえない事が、複雑にねじれた場面を作ってしまう。

相手を馬鹿にしたように受け取られたり、
生意気に思われたり、します。



よほど気が強い人でないかぎり、
対人関係において、引っ込み思案になっていきます。
物の見方が、悪い方へと向います。
いい方へ向けて考えるより、後の始末がいいので…。

引きこもりがちになり、暗い考え方になっていく。
こうして、ますます人から離れていく方へ拍車がかかって行きます。

聞こえない事が、聞こえない人に及ぼすこのような事を考えますと、
何よりも大事なのは、
聞こえない人に対する信頼です。

いろいろな人がいて、中には素直じゃない人もいる。
そう、ひねくれた人もいるかもしれません。
でも、聞こえない人は、うまく要領よく立ち回ってやろうという考えは浮かび難いものです。
やろうとしても出来ないし、偶々出来ても続きませんから。
どうしても、愚鈍な方へ寄っていきます。



相手が聞こえていない事にたって、その場に応じた対応をしていただけたら、幸いです。

大きな声が出せなければ、書く。
その場で繰り返して話す余裕がなければ後でゆっくり話す。
ゆったりとしたコミュニケーションを心掛けてください。

ポンポンとした受け渡しを楽しむコミュニケーションを楽しみたかったら、
相手の聞こえに合った方法を選んでください。


聞く、話すは、なんといっても気軽なコミュニケーションですし、
その効用は、大変に広く深いものがあります。

聞こえが残っている人ほど、
そういう日本語のコミュニケーションを選びます。
また、そういうコミュニケーションをしている人の絶対数が多いので、
家庭でも職場でも難聴者は健聴者の傍にいることが多いのです。

手話を使うのは、全く聞こえない人、ほとんど聞こえない人が多く、
また、そういうコミュニケーションが成り立つ場面へと寄っていきます。

聞く事話すことに寄りかかった生活をしながら、
手話を身につけ、使うのは容易ではありません。

だから、要約筆記は、難聴の多くの人にとってありがたいのです。

どうぞ、これから、宜しくお願いします。

2004.7.20
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by kimipoem | 2004-10-10 01:30 | 聴覚障害

聴覚の特性

朝日新聞投書欄に、
「高齢者の聴覚特性を知って」
という投書が載っていました。
(2004年6月4日に掲載)
高齢者に限らず、
補聴器を使用している難聴者の多くにも当てはまる、
と思い、ここに控え、紹介したいと思います。
(私の任意で抜粋し紹介していますm(__)m)
テレビ番組のBGMが大き過ぎるという投稿に対する文章です。

これは、概して若い人が多いミキサー(音量・音質調整技師)、ディレクターなど番組制作者が、高齢者の聴覚特性を知らないのが原因だと思います。
人間の聴覚系には聴覚フィルターといって、
聞きたい音とそうでない音を分離する機能があります。
このフィルター機能は、やはり年齢とともに低下し、
騒音や音楽の中から聞きたい声を分離して聴き取ることが苦手になってきます。
…。
雰囲気を少々高めるより、せりふが聞き取れることの方が重要です。

(筆者は、大学で聴覚心理学も専門の一つとしておられた由)

補聴器は、入ってくる音を増幅しますが、
その中には、聴覚フィルターはありません。
補聴器をつけている児童の為に、教室の椅子の足へテニスボールをつけるのも、
ここから出る音を抑え、他の重要な音声を聞きやすくする為です。

デジタル補聴器では音を操作処理できるようですが、
ここでの聴覚フィルターにはあたらないでしょう。

テレビの音に限らず、大勢の人声の中から、
目的の声をより出すのが困難なのも、同様です。

補聴器を着けさえすれば、という誤解を一つでも解きたく、
紹介させていただきました。


2004.6.5 記
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by kimipoem | 2004-10-10 01:28 | 聴覚障害

CGと補聴器

私と殆ど同時に映画の感想をupされた、けさぱささんの感想。

「ファインディング ニモ」のCGですが、より自然に近づき、より絵的に優れていました。
私がフルCGムービーを最後に見たのは「バグズライフ」ですが,正直目が疲れすぎてもうフルCGは見たくない、と思ったほどでした。
なにせ数万匹のアリがそれぞれにうごいている様はすごすぎて、
画面の全てが見どころで本当に疲れます。
ニモの舞台は主に海の中です。…。
海の中なので当然のことながら多少濁っているので、ある程度より先は見えなくなります。
あと空気中でもそうですが、カメラには焦点がありますね。
その焦点を基準に他は次第にボケていくわけですが。(被写界深度と言います)
実はこの海の濁りや被写界深度、CGの世界ではけっこう厄介です。
CGだと全てがクリアなのです。つまり目の前にあるものでも、100m先にあるものでも同じクオリティで見えてしまうわけです。

これは、CGのお話ですが、
実は、補聴器にもつながると思います。
補聴器は、機械に入る音をすべて増幅してしまいます。
最近の補聴器では、増幅の仕方に工夫を凝らしていますが、
基本は一緒でしょう。

増幅する度合いは、聞く人に合わせたレベルなので、
自然な音量ではなく、耳元で発生する大きめな音と思ってそう違わない。
そして、増幅された音をすべて聞きますと、耳が疲れます。

それに比べて、聴力の損失が無い人が、聞く音は、
耳より遠くで発生して、耳に届く頃には柔らかくなった音であり、
全体の音をぼんやりと聞きながら、聞きたい音に焦点を合わせられるのではないでしょうか?

お正月、普段と違って長く家族と一緒に過ごすので、
自然に補聴器をつけて聞いている時間が長くなり、
3日には、頭痛がしてしまい、
その後、家族に断って、補聴器を外し、耳を休めました。
初詣で久しぶりに載ったJRの車内は、おしゃべりが満杯!
補聴器を切って、車外の風景に目を向け、ホッとしました(笑)

その時手にしていた安野光雅さんの「絵のある人生」にも、
以上の事につながることが書かれていました。
こちらは、人間の目です。

私たちの頭の中も、
(テレビの画面にあるような画素に相当する、)
凝視の点を記憶でつないで一つの画面にしているのだと考えられます。
ただ、ふだんはそれほど凝視しないで、
漠然と見ることですませ、
神経をなるべく休ませているということかもしれません。

聞こえない人に対する時、
聞こえない子どもに教える時、
こういったことを気にかけながら話してもらえたら、うれしいです。

2004.1.5 記
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by kimipoem | 2004-10-10 01:27 | 聴覚障害




ポケットには納まりきれないものを…(笑)
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